第3章 ひやかしを受けて育った子ははにかみ屋になります

 励ますことのむずかしさ
  カーネギーの著書に地上最大の小売業者になったウールワースのことが書かれています。『人生のヒント』(高城俊之介訳・創樹社)、それによると彼は1年の半分を裸足で過ごす貧乏な農家であったようです。21歳の時に店を持ちたいと、馬にそりを引かせてニューヨーク州に出かけています。もちろん雇ってくれる店は一軒もありません。しかし奴隷扱いのようなむごい扱いに耐えて彼は生き続けました。

 さんざん苦労して失敗を重ねた自信を失っているときに、母は彼をだきしめて『絶望してはダメだよ、いつかはお金持ちになるからね』と言ったそうです。

 この励ましが彼の自信を育てたのでしょう。またこんな母親は、子供がもしお金持ちになれなくても、それはそれで立派であると信じて、息子を励ませる親です。

 さて、彼は始めは食料品を仕入れておく貨物倉庫に、雇ってもらいます。それでも給料は払ってもらえません。払ってもらえるようになっても時給3セントで1日15時間こき使われたのです。やがて彼はアイディアをつかんで銀行から借金をしますが失敗してしまいます。

 そのような中で母の励ましがどれほど彼を支えたことでしょう。母は、彼が成功しても失敗しても彼を大切に思っていたに違いないのです。

 またマックギニスの著書ー『ベストを引き出す』(加藤諦三訳・日本実業出版)に、ある歌手のことが書かれています。彼女はニューヨークのタウンホールで早すぎるデビューをした黒人歌手でした。批評家たちは彼女を酷評しました。彼女は恥にまみれて故郷のフィラデルフィアに帰りました。彼女の失意は1年以上続いたのです。

 しかし彼女の母はあきらめませんでした。母は彼女を励ましつづけました。そんなある午後の日の励ましの言葉が、彼女の心を深く動かしたのです。「マリアン、素直な心がなければ偉大な人にはなれないわ。失敗をくよくよするかわりに、うんとお祈りしてはどう?」そしてこの偉大な声楽家は当時を振り返ってこう語っています。

 『私の声がどうであれ、信じる気持ちが私をあそこまで支えたのです。信じる気持ちと、素直な心がなければ偉大な人にはなれないわ、といった母の言葉を』。励ましが必要なのは失敗したときです。しかし励ましが必要な特に、人はその人の側から逃げていき、励ましが必要ないときにその人のもとによってくることが多いのです。

  ここに例としてあげた母たちは、皆が子供から逃げていくときにこそ子供を励ましたのです。励ますことはやさしいでしょう。難しいのは、それが必要なときに励ますことです。

 親戚の人を見返すために、子供が有名校に入るように『励ます』親は、子供が失敗したときには子供を憎むようになります。

※子供を上手に励ます親のことが書かれてあります。ここを読んでいて思うことは、子供に自信を与え.ことは母親に与えられた特権だということです。子供が失敗した時にこそ、また苦しんでいる時にこそタイミングよくそれを与えられる親になりたいものです。
人間には生きていくためのエネルギーが最初から備わっているそうです。それを心理学では「リビドー」と呼びます。堅苦しく考えずそれを生きていくための情熱と理解してください。
さて、エホバの証人の親子を見ていて感じたことは、親の励まし方が協会の提案に忠実すぎて画一的で、励ましにならず、むしろ子供を追いつめているケースが多いのではないかということです。また、その「励まし」はたいてい「強制」になっています。「励まし」という名の強制。その結果、「生きる情熱」であるリビドーが前向きのエネルギーとして燃焼されず、むしろ内部でくすぶり、発散手段をなくしてやむなく自爆炎上してしまう子供が多々見られます。
母親とは
母なるものは、自分が自分になることを喜び、子供を助け励ましてくれるものでしょう。『私はいつでもここにいる。さあ、行きなさい』といつでも帰ってこられるところのある安心感を与えてくれるものでしょう。

※母なるものは「さあ、行きなさい」と社会に羽ばたくように「送り出す者」のようです。母親は子供の心の故郷。どんな時でも、母親は子供の味方になり、ひたむきに愛し、その成長を喜び、いつでも相談相手になってくれる人のことです。そんな母親がいるからこそ子どもは勇気を振り絞り社会に旅立つことができるのです。
うつ病を生みだす家庭
 うつ病者はたいてい子供の頃に成功の重圧に苦しんでいるのだそうです。それも親からの過大な期待によってです。こうした子供は、親の期待に背くまいとして、親の望む職業につき、親の望む出世をしようとするのです。

 子供に非現実的な期待をかける親は、自分が望むような出世ができなかったので、劣等感を持っています。それを子供の成功で、世間への憎しみを晴らそうとしているのです。そうとは知らない子供は、親の期待を自分のものと信じて、自分もそうありたいと願ってしまいます。このように、親の過大な期待に苦しみ、子供は自分を見失います。つまり自分で自分が何を望んでいるのかもわからなくなるのです。これは励ましではなくストレスを与えているに過ぎません。

 うつ病者を生み出しやすい家庭というと、すぐにフロン・ライヒマン「生まれつきの精神療法かと言われたくらい人間洞察の深い女性精神科医。フロムと共に、西南精神分析研究所を設立したが、ユダヤ人としてナチスから迫害を受け、以後はアメリカに渡って仕事をした。」の調査が出てきて「子供は高い行動基準に同調することを求められる、社会的対面を重視する」ということになります。が、さらに大切な原因は、子供の積極的な攻撃性を受け入れることのできない親ということではないでしょうか。

 子供の自我が確立してくることは、そんな親にとっては驚異となります。そうなると、親は子供の「成長するな」というメッセージを送りつづけることになります。「小さい頃は可愛かったのに」というような言葉が、そのメッセージです。子供が成長することを励ますのではなく、抑えてしまうのです。

 うつ病者を生み出す家庭の特徴の一つに、家庭内に主権的人物がいて、その人を中心にして服従的な依存関係ができていることもあげられています。その家庭はよりよい社会的地位を目指し、しかもそれを息子の業績によって達成しようとしているのです。息子は家の要請を受けています。そして息子は、この親の要請に従っている限り保護されるのです。だいたい、うつ病をテーマにした著作には洋の東西を問わずこのようなことが書かれていることが多いようです。子供の成功を通じて、社会の中で家のステイタスをあげようとすることは、名声が傾きかけた家によく見られることです。競争意識が強く妬みの支配する家です。そしてこのような家から躁うつ病者の出ることは、よく知られているところなのです。


※「子供の頃に成功の重圧に苦しむ」。まさにエホバの証人の世界に見られる一般的な家庭像ではないかと思います。幼い頃から、集会に奉仕に明け暮れ、将来は開拓者としてエホバと会衆の成員に仕える、こういった親の望む「出世」を突きつけられて育つのです。まだ幼い子供は親の期待に応えようと健気に努力しますが、成長するにつれて過大すぎる期待に苦しみ自分を見失うようになります。
ここでも指摘されているような、家庭内に存在する「主権的人物」はたいてい「母親」です。その証人の母親を中心にして服従的な依存関係を築き、証人の母親は子供の組織内の業績に過大な期待を寄せるようになるのです。こうなれば一番の被害者は勝手に宗教的なレールを敷かれてひたすら走るように強要される子供です。エホバの証人の子供たちに精神を病んでしまうケースが多いのはまさにこの図式が当てはまるからではないかと思います。
普通子供が見る将来の夢はたいていは他愛のないものです。例えば、将来宇宙飛行士になるとか、サッカーの選手になるとか…、いえ、子供の見る夢は他愛のない夢想的なものでなければならないと思います。そしてやがて現実的なものへと年齢とともに変化していきます。子供は、子供なりの精一杯の夢を見て願望を持つことが自然な成長なのです。ところが物心ついたころかに耳元で「将来は…開拓者」or「ベテル奉仕者」or「巡回監督・・・」になるようささやかれるのです。最初から他愛のない夢を見ることさえままならない子供の悲しさがJWの世界には存在するのです。
励ましに必要なもの
では、本当に自信を与えその人を支える励ましというものをもう一つマックギニスの著書から例を挙げさせてもらうことにしましょう。ー『ベストを引き出す』
 「1831年、彼は事業に失敗した。32年、州議会選挙に落選、34年に当選。35ねんに恋人が死亡、36年に神経衰弱を煩い、36年に議長選に敗北、40年には大統領選挙人団の選にもれる。43年には下院議員に落選。46年当選。48年落選。50年上院議員に落選。56年、副大統領選挙に落選、58年、上院議員に落選。そしてなんと1860年大統領になる」。
 彼の名はリンカーンといいました。そして著書には、彼がここまで頑張れたのは彼が絶望したときに彼を励まし、彼がいつかは成功すると教え、彼を後押しした人がいたからだとあります。
 周囲の人を見返そうとして子供を「励ます」親は、子供の力を信じないで、子供が失敗に次ぐ失敗をしているときに子供を励まし続けることはしません。それどころか子供の失敗に苛立ち、子供の才能の限界に怒るのです。
 自分が何が好きか、何に向いているかということと関係なく栄光を求める人が世の中にはいます。そのような人を神経症的であるといいます。そして自分の隠れたる才能に気がつかないで一生を終わります。何に向いているか、何が好きかということよりも、何が権威があるかということで職業選択をすることは神経症のあらわれなのです。
 劣等感がたいへん深刻なものだったり、失望がひどいものだったりすると、人は自分の適正を無視しがちです。そして賞賛や、尊敬をしつように求め、それが得られないと今度は子供で勝負しようとするのです。
 そんな親は子供についても適正を無視してしまいます。子供は何が好きか、何に向いているかということと関係なく子供を成功させようとするのです。そのような親に、子供を励ますことはできません。
 また、自分の潜在的能力を、自分自身が成長するために使わないで他人を操作するために使う人もいます。そのような人間を神経症と呼ぶと交流分析の本には書いてあります。『Born to Win』(訳・自己表現への道)これを親にあてはめると、子供を励ましているようで実は子供を操作しているということがよくあります。励ましを操作の手段として使うのです。しかしそれは励ましではなくお世辞です。
 励ましに必要なのは寛大さです。子供の現実を受け入れ、そのうえで励ますときに、それは子供に自信を与えるのです。


一般的にエホバの証人の親が求める子供の将来像は、組織内にとどまり、開拓奉仕をしてやがて奉仕の僕から長老に任命され、演壇の上から話したり、大会などで用いられて、信者仲間から信頼される、そのようなことでしょう。子供の適正・向き不向きにお構いなく、このコース以外は考えられないのです。ここで注目できることは開拓者にしても奉仕の僕・長老いう立場にしても、人々の賞賛が付いて回る立場だということです。いわばステイタスな立場であるわけです。何の立場も得ずに「普通の伝道者」として証人活動と世俗の仕事を両立させて生きることは望まれてはいません。結婚さえも最低限「開拓者」か「奉仕の僕」の立場にいなければならないという暗黙の不文律が存在する会衆もあります。もちろんこれは明文化されているわけではありませんが。
子供がなんの「特権」も得ず、親の“神権的な願い”も叶えず、やがて組織から離れていくと、非情に寂しがり気も狂わんばかりに取り乱すことも多々あります。これは子どもを信じて社会に送り出す寛大な母親とは対極をなすものです。これは端的に言うと「子供への愛」ではなくて「自己愛」です。親と子の宿命である、親子の離反、つまり親離れ、子離れができにくいのが証人社会の特色でもあると考えます。
子供を驚かしてはいないか
励ましで気をつけねばならないことが三つあります。
 まず、励ましのつもりが脅しにならないようにすることです。子供に強く優れていることを期待しながら、その裏で強く優れていなければ愛さないという姿勢がそれです。つまり子供に自信ではなく、ストレスを与えているのです。このように脅かされた子供は自信どころか不安にさえなってしまいます。
 この章の始めに触れたウールワースの母親はどうでしょう。
確かに彼が自信を失っているときに彼を抱きしめて「いつかはお金持ちになるからね」といいました。
 しかし、もしこの母親に「金持ちにならなければ 愛さない」というつもりがあったのなら、それは励ましにはならなかったでしょう。


※証人社会での「励まし」は裏返せば「脅し」です。「こうしなければ模範的でない」「こうでなければ不忠実だ」「この道に進まなければ永遠の滅びが待っている」・・・。
最終的には、このように「楽園での永遠の命」か「永遠の滅び」か、この飴とムチを巧みに使い分けて子供を「励ます」のが常です。
無条件の承認・愛情・励ましが期待できない社会は異常であり歪であるといわざる得ません。
自信を失わせてはいないか
 次に励ましで気をつけることは、励ましが自信を失わせることのないようにということです。
 交流分析でいう親が子に与える破壊的なメッセージの一つとして「〜をするな」というのがあります。このメッセージは何かにつけて恐れている親によって与えられているといわれています。親自身が恐怖心が強く、それで子供が何かするのが恐ろしくて仕方ないので、あれをしてはいけない、これをしてはあぶない、といつも子供に注意するのです。子供が木登りをしていれば、あぶない、と言ってやめさせます。子供がガラスに近づけば、壊れるからあぶない、と叱るのです。火に近づけば火傷すると騒ぐ始末です。

 そうすると、子供は自分のすることで安全なものは何もないと信じるようになってしまいます。そしてこのような子供は、大人になって自分で何かを決めるときに大変な困難を感じるようになるのです。自分では何かを決められないので、誰かが自分に変わって決めてくれるのを待つという優柔不断な大人になってしまうのです。

 バスカリアは「子供に自己表現(自分の潜在能力を発揮すること)させることが親にとって最も大事な仕事である」として「両親の役目は、第一に子供を危険から遠ざけて置くことではなく、怪我をしたときに備えて、バンドエイドを十分に見守ってやることなのです」と書いています。『自己を開花させる力』(加藤諦三訳・ダイヤモンド社)

 グールディング夫妻によると、このように「〜をするな」という親は、ときに子供が欲しくなかったのだということがあるといいます。そしてそのような自分の感情に在悪感を抱き、過保護になってしまうのです。

 またシーベリー(全米をまわって、悩んだ人の話を聞いた心理学者)は、心配のしすぎは姿を変えた怒りに過ぎないといっています。これはどういうことでしょうか。例えば妻が、自分を省みない夫を心の底では憎んでいるとしましょう。しかしその憎しみを認めるのが怖いので、やたらと「心配だ」と騒ぎ立てることで憎しみの感情から目をそらしているのです。私に言わせれば、この妻はつまるところ自分を信頼できないのです。だいたい自分を頼りにできれば夫に怒ることができるはずです。

 励ますときに大切なのは、親自身が恐怖心を克服することです。自分が未知への恐れ、変化への恐れ、評価されることへの恐れ、そんなさまざまな恐れを抱きながら子供を励ましても、それは本当の励ましにはなりません。
 親自身がやる気になっている、親自身が意欲的である、そうして親自身が自分を信頼できるようになって子供を励ますのです。
 ある親は子供を励ましてうまくいき、別の親が同じように励ましてうまくいかないこともあるでしょう。それは親自身が違うのです。自分が生きること困難から逃げていては、子供を励ましても無理なのです。

※組織から発せられるメッセージは「サタンの世に近づくな」です。長年このようなメッセージを繰り返し刷り込まれると本当に「世の人々」がみんなサタンの影響を受けている人たちばかりで、安全な場所は組織内しかないと思い込んでしまうようになります。人間としての自信をなくさせ、ふにゃけた組織依存型人間が出来上がってしまいます。
子供を病気に追いやる母親
 『自己分析』(杉田峰康著・創元社)という本に、「ペアレンテクトミー」という治療法が説明されています。ペアレンテクトミーとは子供を親から離すことで治癒を促す方法です。この著者によると、気管支炎、喘息その他の病気の治療で子供を両親から分離すると症状が軽くなることがあるというのです。

 例としてT君という血管神経浮腫の少年の症例がでています。入院の翌日には腫れがすっかり消えたのに、母親が見舞いに来たらその夕方にはまた手足や顔面にはっきりと浮腫が現れたのです。

 「親と子を遮断し、その間だけ軽快しても、両親と一緒になると、再び病気が重くなるのでは何もならない。ではいったい、子供にとってこれほど非建設的な影響を及ぼす親子関係とはどんなものなのだろうか』。著者は、それは母親が子供に言うことが一貫していないことだ、としています。『体を鍛えなさい』と母親が言うので運動を始めたら、今度は『病気を悪くするからやめなさい』と言う」のですから。

 このような例は、実は数多いのです。ひどい例になると、親から離して入院させてよくなった喘息の少年が、遠くのバス停からやってくる母親の姿を、病室の窓から見つけただけで、喘息がぶり返すというものまであります。
「マイナス」の親
 親がいないということは子供の人生にとってはゼロです。しかし、いることがマイナスである親もいます。私の親は、その時の気分で私を極端に甘やかしたり、極端に厳格になったり、まったく一貫した態度がありませんでした。小さい私が迎合して、精一杯笑いかけても、突き飛ばされることもありましたし、逆に抱きしめられることもあったのです。

 小学校の低学年の頃のある夜、父親から「明日から働きに行け。俺一人が働いていなければならないなんてことはないんだ」とどなられたこともありましたし、またある夜は「いつまで遊んでいてもいいんだぞ」と猫のようになでられたこともありました。私は常に父親の欲求不満の解消の道具でしかなかったようです。


※「マイナスの親」。手厳しい言葉ですが、ある意味、子供の心に多大な傷を負わせてしまう親は「マイナスの親」と呼ばれても仕方ないかもしれません。自分が信じたことを子どもにも押し付けて生涯に渡るトラウマを負わせてしまうならばです。
人は自分の持つ資質を伸ばすのに、恐怖(滅び)や苦痛(ムチ)の助けを借りる必要は全くないのです。子供の成長を促すのは子ども自身が感じる「喜び」です。もしわが子を血の通わないサイポークに仕立て上げたいなら、恐怖と苦痛で、飴とムチで育てたらよいでしょう。サーカスの虎もその方法で火の輪くぐりを覚えるのです。でも、そうする時あなたはマイナスの親となっていることを忘れないことです。
親の矛盾が子供を追いつめる
 「矛盾したことをいう」とは、必ずしも言葉の上のことばかりではありません。われわれは言葉だけで他人とコミュニケーションしているわけではないのです。「目は口ほどにものを言う」し、またわれわれは動作で他人に感情を伝えたりもするのです。
 
 だから言葉によって何かを伝達するときでも、身振りや顔の表情が大きく影響を及ぼすことを忘れてはいけません。不機嫌な顔をして、子供をほめても、子供はとまどうだけです。

 たとえば、子供に対して、落胆の表情をしてタメ息をつくことは「失望した」とはっきり言う以上に深刻な影響を与えます。

 だから依存症の強い親が、子供に「お前の好きなようにしなさい」と言っても、その表情や声の調子で、子供は「好きなようにしてはよくないのだ」と受け取ってしまいます。こうなると子供は身動きできなくなります。言葉とは裏腹なその声の調子にうかがえる怒気から、親は自分の行くことを望んでいないと子供はわかっているのです。子供は親の表情から判断して、行かないことに決めるのですが、親の言葉は行きたければ行ってもいい、のです。となると、子供は自分が行かないと決めたことをどう考えたらよいのでしょうか。

 親の本心に気づけば怒られる。行きたければ行ってもいいとこれだけはっきり言っているだろう、と言われるに決まっているのです。だから、子供は親の本心に気づくことを禁じられているのと同じです。では自分の本心に気づいたらどうかというと、行くほうを選んでいるはずです。しかし実際には行けないのです。

 となると、子供の許された選択は、自分の本心を偽って、自分は行きたくないから行かなかった、と思いこむことしかありません。このようなことをいつもやらされていたら、子供は自分でも自分の本心がわからなくなってしまいます。いつも自分の本心に気づくことを禁じられているからです。

 「杖を挙げて犬を呼ぶ」という格言があります。犬は呼ばれて寄っていこうとします。しかし飼い主は杖を挙げています。杖を挙げているから逃げようとするのに飼い主は呼んでいます。犬は、どうしてよいかわからない、不安な緊張状態におかれることになります。

 欺瞞的な親のやっていることはこれと同じです。したがって子供は去就にとまどうでしょう。子供にベタベタとまとわりついている母親が「男の子はマザーコンプレックスではいけないのよ」と言ったらどうなるんでしょう。子供はどうしてよいかわからなくなりますよ。その挙げ句「子供にはあまりかまわない方がよいと聞きましたが、どう子供を指導したらよいんでしょうか」という矛盾したことを平気で電話してくる母親がいるのです。彼女は大学生の息子を持つ母親でした。

 「自分が何をしたいんだか、自分にもわからない」という青年がふえてきているのは近頃珍しくないのですが悲劇としかいいようがありません。
 憎しみが憎しみとして表現されるときには問題は少ないのです。深刻なのは、憎しみが愛情の仮面をかぶって登場するときです。
 言葉や動作はあることを表現する手段ですが、同時にあることを隠す手段でもあることに気をつけなければなりません。自らの内なる憎しみを隠すために言葉や動作が使われることもあるのを忘れないでください。


まわりくどい表現に気をつけて
 このように、焦り、不安、劣等感、空虚感など精神的傷害をかかえる不幸な人は、言葉以外のメッセージに疲れているのです。たとえばため息、しかめっ面、こみあげる笑いをこらえる笑い、声の調子、いろいろあるでしょう。依存心の強い親は、子供にこのようなコミュニケーションをするのです。

 「そんなことをしてはいけません」と言うかわりにため息をつくという表現のまわりくどさ。
 「そんなことをするのはやめろ」とか「そんなことは嫌いだ」とか言うかわりに、「かなわないなあ、そんなことされたんじゃあ」とか「俺は疲れてんだけどなあ」とか言うのもそうです。

 ただここで注意しなければいけないことは、依存心の強い人間の発言にともなう仕草と、自律性を獲得した人間の発言にともなう仕草とは、その仕草がたとえ同じように見えても、伝達しようとすることは違う場合が多いということです。

 依存心の強い人間が、机をいかに重そうに運んで、独り言であるかのように「重いなあ」と言うときは、手伝ってくれという意思の伝達です。「おまえはこんなに私が苦労しているのにそんなところに座って」と、責めているのです。

 しかし、自律性を獲得した人間が重そうにして机を運び、「重いなあ」と言うときは、本当に重いのであり、その意味しか含んでいません。手伝ってもらいたければ「手伝えよ」と言います。そこで、「俺は疲れている」と言い返されれば、「俺だって疲れているのに、机運んでんだよ。お前一人が疲れているんじゃないよ」と言葉で相手を責めるでしょう。

無理なことを望まない
  さて、最後に励ましで大切な三つめのことは、非現実的な励ましをしないと言うことです。本当にその子の素質、適正を考えて励ますのでなければなりません。いきなり高い目標を挙げたりせず、次第次第に目標をあげて成功が成功を呼ぶような励ましが大切です。

 マックギニスの著書から例を引用してみましょう。『ベストを引き出す』。これはあるスポーツコーチの言葉です。「楽観主義は、現に説得力があれば非常に役に立ちます。だから、現実的な目標を目指すことですね。その子がもし六位が精一杯であれば、六位を目指せと私は言います。友達が今二番手のビン洗いだったら、明日は社長になれるなんて言わないことです。信じなかったら何もなりません。一番のビン洗いになれと言ったら猛烈に頑張るでしょう。息子が前回の試験で可をもらったら、高度はきっと良になれると言ってやるのです」。


読書室に戻る




inserted by FC2 system