《特別寄稿G》

エホバの証人の皆さんへ
                                                もえより

 イエスは安息日にも多くの人々を癒しました。(手の萎えた人を癒す;マタイ12:9−14、マルコ8:1−6、ルカ6:
6−16、水腫の人を癒す;ルカ14:1−6,ベトサダの池の辺で38年間も病で苦しんでいた人を癒す;ヨハネ5−1−
9、生まれつきの盲人の目を開ける;ヨハネ9:1−12)
 それを見たパリサイ人や律法学者は、「彼は安息日の律法を破っている」と、イエスを非難しました。(ルカ13:13
−14、ヨハネ5:10など)そして彼らは「イエスは安息日の律法を守らないから、神のもとから来たのではない」(ヨハ
ネ9:16)と言って、彼を拒みました。それに対して、イエスは「安息日は人のために定められた。人が安息日のため
にあるのではない。」(マルコ2:27)と考えていました。この考えに基づいてイエスは安息日にも人々を癒したのだ、
と私は考えます。つまり彼は次のように考えていたのでしょう。
 
   今目の前に病に、怪我に苦しみ、癒しを必要としている人がいる。今その人を癒さなければ、その人はその苦し
みから解放されず、その人もその人の家族や友人も悲しむことになる。確かに聖書には「安息日にはいかなる仕事も
してはならない」(出20:8−10)と書かれている。そしてパリサイ人や律法学者の言うとおり、律法は守らなければ
ならない。(マタイ23:3)

  だから安息日に人を癒すことができないとすれば、癒しを必要としている人はその日が安息日であるが故に癒し
を受けることができず、それ故にその人は病や怪我の苦しみから解放されず、その人もその人の家族や友人も悲し
むことになる。そして「今日が安息日だから癒してもらえないとは・・・。ああ!今日が安息日でなければよいも
を・・・。」と彼らは安息日を呪うことになる。果してそれで律法は守られた、と我々は喜ぶことができるであろうか?喜
ぶべきであろうか?律法が守られて人が滅びるということを、神は本当に望んでおられるのだろうか?そんなはずは
ない。神がそんなことを望んでおられずはずがない。

 これが、この問題にたいするイエスの答えであった。だから、彼はその日が安息日であろうとなかろうと人々を癒し
続けたのだ、と私は思います。安息日に人を癒すことは外面だけを見るならば確かに律法を破る行為であるが、その
内面までも見るならばそれは律法を生かす行為である。なぜなら、安息日が律法で定められているとすれば、「安息
日は人のためにある。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)というイエスの言葉は、「律法は人のた
めにある。人が律法のためにあるのではない。」と読み替えることができるからである。

   これがイエスが安息日にも人々を癒し続けた理由である、と私は考えます。そしてこの思想に基づいてイエス
がある安息日にべテスダの池の辺で38年間も病を患っている人を癒した記事が福音書(ヨハネ5:1−17)に記され
ている。病を癒された彼がイエスの言葉に従って床を担いで歩き出すと、それを見ていたユダヤ人達が「安息日に床
を担ぐことは禁じられている」と言った時、イエスは「私の父は今も働いておられる。だから、私も働くのだ。」と答えて
いる。彼のこの答えのは一体どのような意味があるのだろうか?当時のユダヤ人達は「神は安息日には休んでおら
れる」(創2:2−3)から、人も安息日には働いてはならないのだ(出20:8−1)と考えていたはずだ。だが、イエスは
違った。既に述べたとおり、パリサイ人や律法学者は安息日の律法を根拠にイエスが安息日に人々を癒すことにこと
ごとく反対し、それを認めなかったし、妨げて来た。だから、癒しを必要としている人々にとってその日が安息日でな
ければ癒して貰えるにも関らず、その日安息日であるために癒して貰えないことになる。だから、彼はその日が安息
日であるが故に病や怪我の苦しみから解放されずに、彼も彼の家族や友人も悲しむことになる。
そして彼らは「今日が安息日であるたてに癒してもらえないとは・・・ああ!今日が安息日でなければよいもの
を・・・。」と安息日を呪うことになる。それ故、その様な人にとって安息日は苦しみと悲しみの日であって、安息の日
ではない。そして安息日をその様な日にしたのは、「安息日に人を癒すことは、安息日の律法を破ることである」と言
ってイエスの癒しの働きに反対し、それを妨害したパリサイ人や律法学者である。だが、イエスは安息日にも人々を
癒すことによって癒しを必要とする人々やその家族や友人にも喜びをもたらした。だからこそ、そのような人々は心か
ら安息日を心から喜ぶことができるのであり、安息日に心からの安息を見出すことができるのである。そして病や怪
我を癒す彼の癒しは、人の業ではなく、イエスを通してなされる神の業である。(ヨハネ9:12でイエスは生まれつき
の盲人の目を開くという癒しを行っているが、この業を行う前にイエスの弟子達がイエスに「この人が生まれつき目が
見えないには誰が罪を犯したからですか?本人ですか?それとも両親ですか?」と尋ねた時、イエスは「神の業がこ
の人に現れるためである」と答えて、彼を癒している。このことから、イエスの癒しはイエスを通してなされる神の業で
あることが判る。)だから、イエスが安息日に人を癒すことは安息日にも神が働いておられることの証となるのであ
る。

それ故、イエスが安息日にも人々を癒す奇跡を行い、パリサイ人や律法学者が「それは安息日に律法を破ることであ
る」と非難する時、イエスは彼らに「私の父は今も働いておられる。だから、私も働くのだ。」(ヨハネ5:17)と言うので
ある。そして人々は安息日でもイエスを通してなされる神の奇跡の業によって癒される時、人々は心から喜び、喜び
をもって心から神に感謝し、神を賛美することができるようになり、心から安息することができるようになるのである。
その意味でイエスは安息日にも人々を癒すことによってパリサイ人や律法学者が人々の呪う日としていた安息日を
真の安息日にしたと言うことができるし、人々は心からの喜びと神への感謝をもって神を賛美することができるように
なり、それによって神の栄光を増し加えることができるのである。

   これがイエスが安息日にも人々を癒し続けたことの意味である、と私は考えます。そしてもしこの考え方が正し
いとすれば、全てのクリスチャンはこの考えに同意するはずである。(もしこの考えに反対するならば、その人はクリ
スチャンではない。なぜなら、その人はイエスに反対しているのだから。)

   エホバの証人は輸血を拒否している。その理由は、輸血を受けることは血を食べることであり、血を食べること
は律法によって禁じられているからである(レビ7:26)、と彼らは言っている。だから、彼らは輸血を拒否することによ
って輸血治療を必要としている人が亡くなっても、そしてそのことによってその人の家族や友人に大きな悲しみが訪
れたとしても、彼らは「律法は守られた」と喜ぶのである。だから、彼らの主張はイエスと敵対したパリサイ人や律法
学者の主張と同じなのである。勿論イエスに反対してパリサイ人や律法学者を支持するのも、彼らの自由である。そ
れでは「彼らはパリサイ人や律法学者を支持しているのか?」と言えば、そうではない。彼らはイエスを「神から遣わ
された神の子である」(”あなたは地上の楽園で永遠に生きられます”66ページ)と言っている。

   イエスが安息日に人々を癒したことにはこのような意味がある、と私は考えます。これは、福音書を真摯に読め
ば容易に判ることです。だから、私はエホバの証人の皆さんには福音書をしっかりと読んで、イエスの心を理解しても
らいたいのです。

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