第2章 敵意にみちた中で育った子はだれとでも戦います

戦場にある心(青字で書いている部分が本文からの引用です)
 本書のテーマであるこの一文を見たとき、私はすぐに「自分の弱みを他人に見せまいとして、虚勢を張っている人は、いつも戦場にいるようなものだ」という意味のウルフの言葉を思い出しました。このことは、虚栄心の強い人のことを考えるとよくわかります。

 「虚栄心の強い人は、多大なエネルギーを労費し、自分を大きく見せて相手を圧倒しようとします。いわば力の誇示ですが、実は心の底で、自分はつまらない人間だと思っているのです。実際の自分がばれることを恐れているのです。

 こうした劣等感がさらに深刻だったりすると、心のバランスをとるために、他人の賞賛を激しく求めたりもします。自分が望むほど自分が優れていないと感じていながら、それを認めることができずに、虚勢を張って生きているのです。こんな人はまた、野心や名声にも固執します。それらが自分の無力感や孤立感を解消してくれるからです。恐ろしいことに、この栄光を求める心の中には、他人や世の中への復讐の衝動がかくれています。」 ホルナイの言葉 

 他人との心のつながりをもてる環境で育った人は、失恋や事業の失敗、それに友人の裏切りなどにあっても、復讐に生きてしまうなどということはまずありません。世の中に信じられる心のつながりの存在することを知っているからです。彼らはやがて挫折から立ち上がり、新しく情熱を傾けられるもの見つけていくでしょう。

 ところが、敵意に満ちた中で育ったり、無視されて育ったり、過保護過干渉のなかで親に束縛されて育ったりした人は々でしょう。彼らは他人との心のつながりなどというものを信じることができません。ですから、挫折にあうと、対復讐に心を奪われがちなのです。ついには、他人だけでなく自分をも含めたつながりそのものを破壊しようとしてしまうのです。

 次にあげるのは、その一例、ある失恋した人の日記です。
 「俺は生きる、断じて死なない、復讐するために生きる、復讐するまでは生きる」
 これが先ほど書いた「栄光を求める心の中にある復讐の衝動」でしょう。日記は次のように続いています。
 「人生の目的、そんなものはない。ただ、俺の前にあるのは復讐だ。人間は何のために生きるのか。そんなものは関係ない。一人の人間に復讐するためにのみ生きるのだ」
 憎しみにとらわれると、そういう人生に意味があろうがなかろうが問題ではなくなってしまいます。復讐が彼の心にとって必要不可欠になってしまったのです。自分を成長させようなどとは考えず、他人の上に自分をおき、他人を辱めることが彼の目的になってしまっているのです。

 (ウルフ)ーオーストリア生まれの精神医学者。後にニューヨークで仕事をした。
 (ホルナイ)ードイツ生まれの女性精神科医、1932年からアメリカで仕事をした。



 今思えばエホバの証人の世界はどこにいてもどんな立場であっても全体が「戦場」でした。
戦う相手は「悪魔サタン」「邪悪な霊の勢力」「世の霊」「事物の体制」などなど。
協会から仮想の敵を与えられ常にそれらと戦える戦士としての態勢を取らされていたように思います。

 その結果、二十四時間、虚勢を張らされているエホバの証人が誕生するのです。
辞めた今、着ていた鎧兜を脱いで精神的にもずいぶん楽になりました。

 もう一つ「虚勢」を張るといえば、別の意味で張っている人たちもいたように思います。それは「仮想の敵」に対してではなく、「仲間」であるはずの同じエホバの証人に対してです。
特に「長老」や「長老の妻」の立場にいる人たちの中にそのような人たちがいました。もちろんすべての人ではありません。中には立派な人格者と呼べる方や優しくて素朴な方もおられました。しかし一部の指導的立場に立っておられる方の中には、いわば、組織から与えられた「力・権威」を誇示したり、他の人からの賞賛を得ることに熱中している人もいました。そのような人に共通していることは、面子を立てることにこだわるということです。逆に誰かから少しでも評判を傷つけられるようなことを耳にすると過剰な反応を示されていきり立つタイプです。

 恐らく本心のところでご自分に自信が無くそれを認めることができないからでしょう。何の悪気も無くたった一言言っただけで徹底的にやられてしまった姉妹を私は何人か知っています。これが「愛に満ちた神の組織」の実態なのです。
つまり神の聖霊に任命されたはずの長老であっても、「いろんな人」がいるということです。世の中にいくらでもいるただの人に過ぎません。

若い心に巣喰う不安
 若い頃を反省してみますと、心の底にあったのは、やはり他人に負けたくないという強い願望でした。しかし当時は、そのような激しい願望に気づくことがありませんでした、自分の心の奥底にそんな願望が潜んでいるとは思いもよりませんでした。

 この人に負けたくない気持ちを意識から排除するというのは、自分が人に実は負けているとわかっているのにそれを認めたくないという願望のあらわれです。もともと負けず嫌いの私でしたから、いちばん認めたくない事実に目をつぶり続けたのです。不毛とはいえ、私はいつも戦っていたのです。

 だから、自分が負けていると思ったものにはことごとく反発しました。そんなものは皆くだらない、ということでかたづけてしまいたかったのです。しかし、いくらおさえつけていても私の心には、不安な緊張がいつもありました。



 エホバの証人は実年齢に関係なく、総じて「幼い」ように感じました。それはある観点から見れば「純粋」と言えるかもしれませんが、別の観点から見れば「幼稚」とも言えるかもしれません。
 そのような「幼さ」はともすれば、「開拓奉仕の特権」を捉える「競争」になったり、「もてなしや交わり」の「競争」となって表れました。

 誰かが正規開拓奉仕者になると、必ず続けて他の人もなります。誰かが補助開拓奉仕を申し込むと必ず何人かの人たちも釣られて申し込みます。誰かが「食事の交わり」を開催すると、呼ばれなかった別の人たちが同じような「交わり」を企画します。

 いつのまにか「開拓者競争」になったり「もてなし競争」に発展していることもありました。これはよくJW用語で「励まされましたから…」と言うのですが実のところは他人の負けたくないという願望のほうが強く作用していたと私は思うのです。

 組織から出た今となっては、回りの人の目を気にせずマイペースでいられる分とても快適な日々を過ごせています。
ほんとうに安らぎを得るには
 ところで、自分を実際よりも重要な人物として印象づけようとする人格の特徴を、ウルフは「プラス・ジェスチャァ」と呼んでいます。たとえば、小さな犬が、大きな犬のことが気にかかって黙っておれずに吠えたりすることです。それに、少年が暗い夜道で口笛を吹くのもそうです。

 こうして自分を実際以上に見せようとすることは、重荷を背負っているようなものです。ウルフは金持ちになることで安心しようとする人のことを「それは一トン半もの重い鎧を身につけた恐竜が、あの大昔に泥沼のなかで生きるための戦いをしなければならなかったのと同じである」といっています。

 自分を守るために身につけた鎧の重さに、うっかりはまりこんだ沼地からぬけ出せなくて、かえって命を落としてしまった恐竜。人間でいえばこの鎧にあたるものがお金であり、名誉であり、地位だとウルフはいっています。自分を守るために、名誉や金や権力を手に入れても、やがてはそれによって滅んでしまうとしたら、あまりにも悲しいではありませんか。

 ほんとうに心の安らぎを求めるのなら、実際の自分そのままに価値があること見つけなければなりません。しかし、敵意に満ちたなかで育った子供には、とても困難なことです。

 (プラス・ジェスチャー)ー「どうしたら幸福になれるか」(岩波新書)



 素のままのエホバの証人でいることは中々難しいものがあります。兄弟達なら「正規開拓者」「奉仕の僕」「長老」。姉妹達にも「補助開拓者」や「正規開拓者」という重い鎧を背負うことが常に求められているのです。

 ですから、現役の方たちは、何らかの理由で長年「平の信徒」でいる方を、「謙遜な兄弟」とか(何も特権がなくても)「忠実に交わっていて偉い」と言ったプラスの評価をすることがあります。つまり彼らは「素のままのエホバの証人」でいるという難しいことを長年続けているので人々の評価を得るのです。彼らはなんの鎧も着ていないのですが、それでも彼らには彼らなりの苦労や辛さはあるのです。

 「特権」という鎧を着ている人たちには、本当の安らぎはないのかもしれません。協会からこれでもかこれでもかと次々に要求が課せられるからです。「長老」も「奉仕の僕」も「開拓者」も常に自分の身を削るような多忙の渦の中に身を投じなければなりません。

 しかも、常に積極的な言動をすることが求められます。戦時中の日本人が「アメリカは素晴らしい」とか「日本は負けるかもしれない」などと言うとたちまち非国民扱いされて厳しく罰せられたのと同じように、今現在でもエホバの証人は、組織に対して消極的なことを口にすると「霊性が低い」とか「肉的」というレッテルを貼られて場合によったら別室に呼ばれて「助言」や「叱責」の扱いを受けてしまいます。

 ですから一人前のエホバの証人として認めてもらおうとすれば「プラス・ジェスチャー」のように、常にエホバや組織、または会衆の長老達を褒め称えたたえる言葉、それは歯の浮くような褒め言葉や感謝の言葉を口にすることを習慣としていなければならないのです。
なぜ人は快楽を求めるのか
 生きていることが無意味に感じられとき、人は快楽や権力への意識が現れる、とフランクルは言います。

 自分の人生に果たすべき使命も見つけられず、解決すべき課題や、生きる目標もないとなると、生きることの意味を満たすことなどできません。その心の空白に、権力志向や快楽への欲望は生まれるのです。

 また、フランクルとは少し違って、ホルナイは、不安や憎しみ、それに劣等感から人は権力を求める、と言っています。自分の弱さを守るために権力を求める、ということの他に、自分が重要でない人物だと周囲から思われることを恐れてのことでもあります。あくまで自分の中の不安を押さえつける手段として権力を求めるのです。

 (フランクル)ー1905年オーストラリア生まれ、実在分析の精神医学者。ウィーン大学医学部精神科教授を勤めた。日本でもフランクル著作集として多くの本が訳されている。
他人の成功を喜べる心
 それまで生きることが十分に楽しめなかった私が30代になって楽になれたのも、自分が負けているということを認めたからです。そんな気持ちをおさえている愚かさがわかったからです。

 負けていることを認められないでいると、いつも他人に自分の価値を証明しなくてはなりません。しかしそんな態度では、ますます周囲の反発を買うことになりかねません。他人の成功が自分の価値を下げるように思えて、逆に他人の失敗が、自分の価値を上げるように思えるでしょう。そうなると、いつも他人の成功と失敗が気になってしかたがないのです。

 まずは、今まで目を背けていた「自分は負けている」という気持ちに気づくことです。不思議なもので、そうなるとそれまでの勝負へのこだわりが滑稽に思えるはずです。すると、勝ち負けと自分の価値とが別のものに感じられ、素直に負けを認めることもできるのです。

 そうなって初めて人は、他人の成功を心から喜び、また他人の不幸を哀しむことができるようになります。そしてそのような生き方から来る心の安らかさを味わうことができるのです。
自分が負けている、という気持ちから目をそむけていることは、その人にとって不幸なことです。心の平和など望むべくもありません。
救いのない家庭とは
 親が周囲の評価を気にしていたらどうでしょうか。いつも世間を見返してやる、などと敵意を持っていたらどうでしょう。何かにつけ他人より優れていることを期待された子供は、ほんの少しのことで深刻な劣等感を持ってしまうでしょう。

 こんな子供達が教えられることには、いつもトゲがあります。親が心の葛藤を逃れるのに、子供のささいな行動をとりあげて激しく叱るとき、子供は敵意にさらされるのです。

 子供達は人を好きになれない人たちに囲まれて育ってしまうのです。
 いくら親が否定したところで、子供達が影響されるのは、そうやって隠している親の無意識です。子供達がこうした雰囲気のなかで、自分は親に好かれない、と思ってしまいます。こうなっては、親がいくら子供に表面上思いやりを見せても、家庭を支配するのは深刻な不信感でしかないのです。

 このような家では、誰も子供の不安をとりのぞくことができません。もちろん子供自体にもそんな力はありません。従って、子供には自分の身をあずけられる誰も存在しないのです。



 ここと続く記事には「救いのない家庭」と「救いのある家庭」との違いが述べられています。
子どもに対して常に高い基準を要求している、常に模範的であることを要求している。そんな家庭環境に子どもが置かれていたらどうでしょうか。きっと子どもは子どもらしさを失って息が詰まってしまうでしょう。その行き着く先は自分に自信がもてなくなる自己不全の子ども達です。

 人間というのは誰でも欠点があります。完璧な人間なんていませんよね。それならば「欠点丸抱えで信じる」ことのほうがはるかにましです。

 これから長い人生で出会うであろう悲しみや苦しみを乗り越えて生き抜く力を子供に与えるためには、自分の価値がいかに大きいものであるか、それを常日頃から教えてあげるべきです。

 自分の価値を信じる力、深い静かな自信を育てるような接し方を親はすべきなのです。
JWの家庭がすべて「救いのない家庭」とは申しません。しかし組織の言いなりになって子どもに過大な要求を押し付け、まだ大人になりきらない幼い心身に言いようのない苦悩を背負わせている家庭も多かったというのが私の実感です。
思いやりを持つために
 逆に、安心して母親にあずけられていた、そんな幼い頃をもった人は、自分を守るために他人の上に立とうとして、戦う必要がありません。

 母親を信頼できたかどうか、この違いはとても大きいのです。母親に身をまかせていれば、不安から身を守ってくれる、自分でじたばたすることもない、母親に訴えれば不安があってもとりのぞいてくれる、また多くの場合母親に身をまかせていれば不安そのものがない、なんと快適なことでしょう。

 そんな幼年期をもてた人に、どうして虚勢を張って周囲の人と戦う必要があるでしょう。だからこそ、逆の場合は自分を脅かすものと戦うのです。

 これでは他人に対する思いやりなど出てくる余地などありません。自分のことしか考えれないのも当然です。幼い頃に母親を信頼できなかった人は、成長しても他人を信頼できなくなりがちにもなるでしょう。信頼できなければ、自分を守るために戦ったり、逆にむやみに迎合して自分を守ったりするのは当たり前です。
自分を心理的に守る必要のない人が、初めて他人に対して思いやりを持つ余裕がでてくるのです。



 物心ついたころには週に三回の集会に連れて行かれ、休みの日には布教活動に連れ回される。雨の日も雪の日も、真夏の炎天下の元でも。訪問する家がクラスメイトの家でも、会社でもお客のいる喫茶店でも銀行でも。二世の方々は本当によく耐えて頑張ってこられました。

考えただけでも我々一世はそのような二世の方々に頭の下がる思いになります。

 もしまだ幼い子どもを持たれる現役の親の方がこれをご覧であれば、「母親を信頼できたかどうか」という部分をよく考えていただきたく思います。あなたのお子さんが、無条件に受け入れられている、ただ存在することに意味がある、丸ごとOKしてもらえている、と心から感じているでしょうか。

 「あなたはあなたのままでいいんだよ」「あなたが生まれてきて嬉しいよ」「どんなあなたでも大好きだよ」「ありのままのあなたでいいんだよ」・・・。そんなメッセージを温かいぬくもりと共に子どもが受け取るとき、子どもは安心して自分の身を母親に任せることができるのです。

 そこにはものみの塔組織の教えも要求も入る余地はありません。親と子だけの神聖不可侵の世界だと思うのです。大切な子どもたちが幸せと感じながら人生を歩んでもらうために、親ならではの「無条件の愛」を示して、子どもの存在感を満たしてあげてほしいと願います。 

 組織から仮想の敵の一つと教えられていた「世の人々」も悪い人ばかりではなく、親切な人も楽しい人もいます。ただ、かってはエホバの証人だったという劣等感が深刻だったりする人は、世に馴染むにも苦労が付きまといます。

 まずは気持ちを楽にして、そのままの自分でいいのだよ。ありのままで十分に価値があるのだよというメッセージを自分自身に向けて発する必要があるのではないでしょうか。特に二世として育てられた方々は自己肯定感が十分に育まれていないケースが多いようです。「あなたは何も悪くないのです」「あなたはそのままのあなたで十分に魅力的なのです」「あなたは本当に愛すべき人です」といったプラスの言葉を十分に受けて自分に自信を取り戻す必要があるようです。


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