ある自然消滅者の現役時代の経験



その@

 私がA市の会衆に居た時。近々に大会を控え、討議も終え、そこでバプテスマを受ける予定の若い
主婦の方がおられました。就学前の二人のお子さんと集会に来ていました。ご主人は未信者でし
た。そんな土曜日、早朝ゴルフに出掛けたご主人が交通事故で急死されました。すぐに、群れごと
に連絡網があり葬儀の手伝いに向かいました。葬儀は、喪主である主婦の方の意向により、自治会
館で「無宗教に近い、ややJW 寄りのやり方」で行われましたが、亡くなられたご主人が未信者だ
ったので、長老が司会進行する事はありませんでした。でも長老は、お通夜も家に帰らずにずっと
彼女の傍に居て、慰め、また、ご親族の方々に「無宗教」で行う事をどのように証言したら良いか
をアドバイスしていました。他の長老達も彼女を慰めに来ていました。大勢の姉妹達で、座布団や
お茶の準備や後片付けなどを手伝いました。彼女はその後、傷心の中、しかし復活の強い希望を抱
きながら、予定通りバプテスマを受けられました。

 それからしばらくして、私は主人の転勤で、X県のB市へ引っ越しました。引越しは慣れていたの
で、会衆の姉妹達とはすぐに仲良くなりました。主人も日曜と火曜の集会に出席し、二冊目の「知
識」の本をある兄弟と研究しました。長老は三人でした。A 長老は48歳、長老になってまだ半年
で主宰監督。B 長老は65歳、血管の病気のため長年務めた主宰を降りたばかり。C 長老は隣の会
衆から期限付きで助っ人に来ていました。
一年半ほど経った頃、開拓者のD姉妹のご主人が癌で亡くなりました。そのご主人は以前、強い反
対者で、集会中に怒鳴りに来たり、B 長老の家に文句を言いに来た事があったそうです。でも、癌
で入院されてから、「聖書を知りたい。」と言われて、亡くなるまでの一年間、病院のベッドに寝
たままY 兄弟と研究されていました。亡くなられた時点では、研究生だったのです。待っていても
一向に連絡網が入いりません。ある姉妹が、 D 姉妹に会いに行って、「自治体の集会所で無宗
教で葬儀。明晩お通夜だけど、『お別れ会』と看板を立てて行う。」と個人的に知らせてくれまし
た。まず集会所の掃除もあり、座布団を並べて、お茶やコップの用意などもあるので、翌日のお昼
に集会所に行きました。来ていたのは、電話をくれた姉妹、目立たない姉妹が二人、私の4人だけ
でした。4人で掃除をし、お茶の用意をし、ご遺族は夕飯を摂る時間がないだろうと、急遽、おに
ぎりも沢山作りました。弔問客は、香典や数珠を持参して来られましたが、私達は、仏教的な行事
に関わらないよう細心の注意を払いながら、出来る範囲で精一杯の手伝いをしました。かなりの深
夜まで手伝ったのですが、会衆の人で顔を出したのは司会をしていたY 兄弟だけで、あとは、長老
も他の兄弟姉妹たちも、誰も一人も来ませんでした。喪主は開拓者の姉妹、亡くなったのは研究生
なのに・・。私は、A市での葬儀を思い出して、余りの違いに落胆し、喪主の姉妹がどんな気持ち
かを考えると可哀相で心底同情しました。

 翌日は、葬儀と出棺、火葬場へと、なっていて、朝方、手伝いに行こうとしていたら、A 主宰長老
から連絡が入りました。「葬儀の手伝いをしないように。ご主人は反対者でしたから。昨日、手伝
いに行った姉妹は誰々ですか?」 愕然としましたが、その場では反論せずに電話を切りました。
昨日の4人が同じ内容の電話を受けていました。葬儀その物の手伝いには「長老からの指示」なの
で、行きませんでした。
夕方になって集会所の後片付けと掃除には行きました。掃除をしながらも、「反対者だったから手
伝わない。」と言うのが、どうしても理解できず、愛のない冷酷なA 長老に腹が立って仕方ありま
せんでした。「研究生が亡くなったのに、なんで過去にこだわる !? 他の長老も同じ意見なのか?こ
れが聖書の教える愛なのか?」と理解に苦しみました。

 次の木曜日の集会後、私はA 長老とはあんまり話したくなかったので、B 長老に話し掛けました。
「何故、今回のお別れ会と葬儀に、長老達は来なかったのか?以前は反対者でも亡くなる直前は研
究生だったと言う事実は考慮されないのか?A市でも未信者のご主人の葬儀があったけど、おなじ
組織なのに、この差はどうして生じるのか?」
もちろん、敬語を使って、冷静にこれらの質問をしました。この事が、後々とんでもない事態にな
るとも知らずに。


そのA

 私の質問に対するB 長老の答えは次のような内容でした。
「D姉妹の亡くなられたご主人は、とにかく強い反対者であった。未信者の家族の葬儀等に、会衆
や長老団がどのように関わるかについて組織からの明確な指示はない。
未信者と一口に言っても、協力的な未信者から迫害する反対者の未信者まで、いろんな人がいるの
で、マニュアルがある訳ではなく、それぞれの会衆の長老団が様々な事を考慮した上で、決定すれ
ば良い事になっている。だから、同じ未信者の葬儀でも、会衆によって、差が生じるのは当たり
前。今回も、長老団でよく話し合って決めた事だ。」

 私は、A市での葬儀で長老たちが如何に彼女のために尽力したかを説明し、配偶者を亡くしたD姉
妹の気持ちを考慮するどころか「葬儀の手伝いに行くな。」とまで指示するこの会衆の長老団の決
定には納得が行かないと、掛け合いました。私がそこまでするのには理由がありました。その日の
お昼、D姉妹が、お通夜を手伝った御礼の挨拶に家に来られて泣き出したのです。
「主人が亡くなった当日の夜、A主宰が訪ねて来て、『ご主人は強い反対者でしたから、会衆とし
ては一切お手伝い出来ません。』とだけ告げて、慰めの言葉もなく、すぐに帰ってしまった。惨め
で、寂しくて、辛かった。」と、涙を流して話してくれたからでした。

 B長老はもう一度「強い反対者でしたからねぇ。長老団で決めた事なので・・。」と繰り返し、
「解かりました。その決定は、A市に比べたら冷たいと感じました。」と言う私に、下を向いたま
ま何度も小さく頷かれました。

 その次の集会で、B長老は以前と少しも変わりがないのですが、A主宰が急変し、私を徹底して無
視するようになりました。挨拶はしてくれない、目は逸らす、注解は絶対に当ててくれない。その
夜、A主宰から電話が掛かってきました。挨拶もなく、いきなり激しい怒りをあらわにされまし
た。
「私のどこが冷たいんだ?私はDさんが亡くなったその日の内に誰よりも早くD姉妹を慰めに行って
るんだ!何も知らないくせに!しかも、アナタは長老団で決めた事を無視して勝手に通夜の手伝い
にまで行って!アナタは自分が何をしたか解ってますね?長老批判と反逆だ!」

 恫喝そのものでした。涙がポロポロこぼれて来て「ごめんなさい。」と何度も何度も謝るしかあり
ませんでした。電話は一方的に切られてしまいました。(慰めの言葉は無かったとD姉妹は泣いて
いるのに・・。通夜の日は長老から何の連絡もなかったし、仲間に示した愛が長老に対する反逆だ
と言われるほど悪い行為なのか。冷たく感じましたの一言が、長老批判になってしまうのか。実
際、今の電話の話し方だって切り方だって冷淡じゃないか。エホバもイエスも、A主宰と同じ見方
をされるんだろうか。)

 こうした疑問は「長老批判と反逆だ!」の言葉で、打ち消されて行き、罪悪感で自分を責めはじ
め、泣いて祈っても苦しいばかりでした。

 謝ったのに全く許してもらえず、A主宰の無視はさらに徹底したものになりました。
おそらく家族で話したのでしょう。Aの妻も息子も無視に加わりました。集会は「針の筵」と化
し、家に帰り着くなり突っ伏して泣きじゃくる日々が続きました。それでも、神とイエスと真理に
躓いてはいないから、と集会奉仕は休みませんでした。その内に、私を注解させないだけでなく、
私の方向を全く見ないので、私の前後左右の人達までが注解に当てられない事に気付きました。毎
回違う席に座ってみたのですが、結果は同じ。私の思い過ごしではなかったのです。周りの人にま
で迷惑を掛けている。私は集会に来るべきではない。と追い詰められて行きました。涙ながらに祈
り倒しても何の変化もないどころか、A主宰の冷酷さは増していきました。日曜には集会に来る主
人に対しては握手をするのですが、すぐ後ろに居る私には、くるりと踵を返し、目で追うと壁に背
中をくっつけて腕組みをしているのです。「お前には挨拶なんかしてやらないよ。」と言わんばか
りの態度なのです。それを見た主人は「子供じみた露骨ないじめだね。人間性を疑うよ。」と小声
で言って私の手をそっと握ってくれました。
理解者はエホバの証人ではない主人だけでした。誰かに相談すれば、また長老批判と言われかねま
せん。会衆の中では孤独でした。

 そんなある日曜の「ものみの塔」研究で、長老に対して感謝を示すよう促す記事が扱われました。
A主宰は司会者なのに雄弁に自分の注解を含めながら進めて行きました。その責めに耐えられなく
なり涙がこぼれ、それ以後の集会奉仕に行く事ができなくなりました。
六ヶ月間休んでしまうのですが、雑誌も王国宣教も一度も届く事はありませんでした。


そのB

 A主宰の執拗なまでの「いじめ」とも言える徹底した無視は、私を会衆と神権的な活動から引き離
して行きました。「長老批判と反逆」の罪人とされてしまい、その言葉でさらに自分を責め、眠れ
ず、耐え難い苦痛の中で過ごす一日一日は、とても重く非情なまでに長い時間に感じました。強い
ストレスと不眠と食欲不振で、過喚気発作、乏尿、発熱、頭痛、嘔吐、持病の膵臓の発作、と体調
を著しく崩し病院に行き、医師から「貴女には生気が全く無い。憔悴しきっていますね。」と言わ
れた途端に診察室で声を上げて泣き出し、しばらく入院しましたが、心の傷は何ら癒える事はあり
ませんでした。

 何も知らない姉妹達が、休んでいる理由を尋ねて家に来るのですが、A主宰の「長老批判」の言葉
が重圧となっていたので、誰にも一言も打ち明ける事は出来ませんでした。私の心はもういっぱい
いっぱいで、何か一つの小さな事でもいいから解放されたい、ほんの少しでいいから楽になりたい
と思いました。私が選択したのは「姉妹達の訪問、質問」からの解放でした。自力で解決できるた
った一つの事柄でした。群れの司会者であったB 長老に手紙を書きました。
『親愛なるB 兄弟。ご承知のとおり私は今、心身を病み、集会奉仕を休んでいます。
姉妹達が優しい気遣いで家を訪ねて来て下さり、大変嬉しく心から感謝しているのですが、回復す
るまで暫らくの間、そっとして置いて下さいますようお伝え願えませんでしょうか。いつの日か、
再び元気な顔で集会に交われる様に、今は心身の回復に努めたいと思っております。よろしくお願
い致します。 *** ***(名前)』
たったこれだけを書いて届けるのに、大きな労力を要しました。
私が手紙を書いたのは、後にも先にも、この一通だけでした。

 休んでいる間、奉仕中の姉妹達を見かけるのは、辛いものがありました。楽しそうに会話しながら
歩いている姉妹達を妬ましく思いました。「ホントは私だって奉仕したいのに。集会だって行きた
いのに。」家に走り帰っては、祈りながら泣いていました。
そんなある日、スーパーの自転車置き場で偶然、主宰の妻のA姉妹に会いました。1メートルの距
離でした。「こんにちは。」と声を掛けたのですが、姉妹は眉間に縦じわを寄せて私を一瞥し、無
言で立ち去って行きました。気が狂いそうでした。
私は挨拶するにも値しない人間なのでしょうか。心はさらに壊れて行きました。こんな年齢になっ
て、まさか「愛」を唱える「神の組織」から、しかも、神の聖霊によって任命されたと自称する本
人とその妻から、このような陰湿ないじめに遭おうとは思ってもいませんでした。
その後、外出恐怖症になり、確実に集会をしている時間にしか、外出できなくなりました。それで
も、「人から隠れる事ができても、エホバからは逃げも隠れも出来ないのだ。」と、さらに自分を
責めて行きました。

 そんな苦悩の中で六ヶ月が過ぎようとしていた頃、故人のDさんを司会していたY兄弟がご夫婦で
家を訪ねて来られました。
「姉妹にお尋ねしたい事があって来ました。姉妹は断絶届けを提出されたのですか?」
不可解な質問でした。私は以前にB長老に出した手紙の内容を説明し、それ以外には、誰にも何も
書いた覚えはない、と答えました。
「本当に書いていないんですね。これは大きな問題です。実は、昨夜の集会でA主宰に、***姉妹が
長く休んでおられるので牧羊してあげて下さい、と頼んだら、あの姉妹は断絶届けを出したから牧
羊の必要はない、と言ったんです。私がこの耳ではっきり聴きました。どう考えたっておかしいで
す。本当に提出があったのなら発表されるはずです。あの主宰は問題だらけだ。今すぐ、B長老の
家に行って訴えましょう。
私達夫婦が証人になります。さぁ、行きましょう。主宰を降ろさせるいいチャンスです。」

 余りのショックに私はその場で泣き崩れました。一体、あの手紙のどの部分が断絶と判断されるの
か、A主宰の誤解ではなく、悪意を感じ、そこまで憎まれ嫌われる自分は何なのだろうと、表せな
い感情で一杯になり嗚咽しました。


そのC

 Y兄弟夫婦は、玄関で座り込んで泣きじゃくる私の腕を二人で掴んで立ち上がらせ、B長老の家に
一緒に行こうと強く勧めました。私は全く身に覚えのない「断絶届け」の話に衝撃を受け動揺しな
がらも、Y兄弟の「主宰を降ろさせるいいチャンス。」という一言がとても引っ掛かりました。

 A主宰に対しては、「断絶届け」の話を訂正して欲しいだけで、主宰を降ろさせたい気持ちは私に
は無かったからです。私とY兄弟の間に“気持ちのズレ”や、訴える“動機の違い”を感じ、この
ままY兄弟と一緒にB長老に会いに行ったら、話が混乱し問題が大きくなると危惧したので、「今
は話を聞いたばかりで気が動転しているので、B長老の家には日を改めて落ち着いてから話に行き
たい。その時にY兄弟の証言が必要だと感じたらご連絡します。しばらく冷静になる時間を下さ
い。」と言って、お礼も述べて引き取って頂きました。
ずいぶん後になって解った事ですが、Y兄弟は当時、A主宰の感情的な怒りで「会衆内での特権」を
剥奪されるという「いじめ」に遭っており、私のこの事を機に、A長老を主宰の座から降ろさせた
かったようでした。

 Y兄弟夫婦が帰られた後、索引で「断絶」の項目を調べ、関連記事を全て読みましたが、それはと
ても耐え難い内容でした。
・自ら断絶する者には弁解の余地はない。
・信仰を否認し、エホバへの崇拝を故意に放棄し、もはやエホバの証人の一人として認められる事
を望まない者。
・手短な発表がされ、排斥者と同じようにみなされ、扱われる。挨拶の言葉も掛けてはならない。
・断絶者を避ける断固とした忠実なクリスチャンの態度は適切なもの。
・聖書的に言って、神の会衆を放棄する人は「世の人」以上に咎めるべき者となる。
神の聖霊によって任命されたはずの長老に、全く身に覚えがないのに「断絶届けを出した姉妹」と
言われるのは、「冤罪による死刑宣告」と同じ程の大きな打撃でした。
とっくに壊れていた心に、さらに熱湯と塩を掛けられたような、酷い心の痛みと苦しみで、本当に
死んでしまいたいと思いました。

 数日後、B長老に電話を入れ、何ヶ月か前に書いた私の手紙の内容を覚えて下さっているか、A主
宰にはどのように伝えて下さったのか、と尋ねました。B長老は「そっとして置いて欲しいという
内容でしたね。その通りに群れの姉妹達にもA長老にもお伝えしましたよ。」と即答してくれまし
た。私はY兄弟から聞いた話を伝えました。B長老は驚きながらも「A長老の何らかの勘違いで悪意
はないと思う。今夜の集会でA長老に話してみる。」と言ってくれました。

 その後、何日か待ったのですが、A主宰からは何の連絡もないので「B長老から話を聞いて下さっ
たでしょうか?」と私の方から電話をしました。A主宰は「以前にB長老から断絶って聞いたような
気がしてね。それよりも、姉妹の家に来たのは一体誰ですか?この事は他の兄弟姉妹が知っていま
すか?姉妹はこの事をB長老以外の誰かに話しましたか?」と、B長老の所為にして一言の謝罪も訂
正もなく、この話が何処まで広がっているのかを心配するばかりで「今は忙しい。」と早々に電話
を切られてしまいました。私は怒りも湧かず、切なくやるせない気分になり、A主宰は今夜眠る前
に一体どんな祈りをエホバに捧げるのだろうと考えると、深い溜め息が出ました。

 翌日、B長老に再び電話を掛け、「私はエホバにも、イエスにも、教理にも躓いていないので組織
に戻りたいと、六ヶ月間ずっと思っていた。でも主宰監督に断絶と言われ、話し合っても謝罪も訂
正もして頂けず、もうこの会衆には戻りたくても戻れない。どうしたらいいか。」と相談しまし
た。B長老から、越境して他会衆に移籍する事もできる、一日も早く組織に交わった方がいい、書
記なのですぐ手続きを執ってあげると言われました。当時このX県B市には三つの会衆があり、私の
家に近い方の会衆に移籍の手続きをお願いしました。

 次の日曜日から隣の会衆に移籍しましたが、雑誌も王宣も六ヶ月の間、一切貰っていなかったの
で、新たな会衆の長老たちに揃えて頂きました。姉妹達は移籍して来た理由を尋ねる事もせず温か
く迎え入れて下さり、二人の長老も芯から優しくて色々と気遣って下さり、居心地の良い会衆で集
会奉仕を楽しむ事ができました。
しかし、それもつかの間でした。移籍してわずか一ヶ月足らずで、気が重くなる発表がありまし
た。別の土地に今よりも大きな王国会館を建て、三つの会衆が、二つに合併されると言うものでし
た。私の家とA主宰の家はとても近く、面積の狭いB市を縦に割っても、横に割っても、再びA主宰
と同じ会衆になるのは間違いない事でした。
発表によると建設予定まであと半年でした。
合併するまでに何とかA主宰と和解したいと思いました。B長老に伝えても和解できなかった、で
も、移籍してきたこの会衆の長老に仲に入って頂くのは適切ではないと考えました。あとは巡回監
督だけが頼みの綱でした。エホバに和解したい事を祈って、巡回訪問を待ちました。



そのD

 合併により再びA主宰と同じ会衆になりそうだと解った時に、他の市へ引っ越す事も考えない訳で
はなかったのですが、B市に来てまだ何年も経っておらず、出費の嵩む転居は主人に申し訳なく、
何としてもA主宰と和解し合併後もこの土地で頑張って行こうと思いました。

 巡回監督は三年周期で交代し、最後となる六回目の時期でした。初対面の監督よりも面識のある監
督の方が相談しやすいので早くお会いしたかったのですが、越境して来た会衆は、私が来る直前に
六回目の訪問をすでに終了していました。
以前に在籍していたA主宰の会衆の巡回訪問が間近にあることを知り、「和解」に監督が力を貸し
てくれる事を期待し、その日を待ちました。

 そして、巡回訪問の週が来ました。訪問初日に行われる“記録調べ”で私が越境して行った経緯が
取り上げられるだろうと思い、週半ばに巡回監督に連絡し、話しを聴いて頂きました。
私は、Dさんの葬儀の事、「冷たい」と私が発言した事、一方的なA主宰からの電話や長期に亘る無
視、身に覚えのない断絶届け、越境移籍に至るまでを話し、合併されるまでにA主宰と和解したい
ので助けて欲しい、断絶届けは事実無根なので、私だけでなく、Y兄弟夫婦にもA主宰から訂正して
欲しい、と気持ちを打ち明けました。

 監督は、時に、短い確認の質問をしながら、時間を掛けて私の話を聴いてくれました。
そして、「私に話をするのは、とても勇気が要ったでしょう。よく話してくれました。本当に辛い
思いをしましたね。」と慰めてくれました。その一言で今まで何ヶ月も耐えてきた辛さが一気に溢
れ、泣けて仕方がありませんでした。
さらに監督は、「Y兄弟夫婦にA兄弟が訂正する事は、また別の話になります。A兄弟は、まず、姉
妹に対して謝罪し、和解しなければなりません。A兄弟には私から、もう一人の長老と共に姉妹の
家に行って謝罪するようにと、この訪問中に必ず伝えますから、A兄弟が訪ねてくる日を楽しみに
待っていなさい。」と言われました。

 ( これでやっと和解できる。合併しても、もう大丈夫だ。監督に打ち明けて良かった。)と思い、
A主宰からの連絡を待ちました。しかし、一週間過ぎても、一ヶ月過ぎても、A主宰からは訪問どこ
ろか、電話の一本もありませんでした。マタイ5章で、供え物よりも和睦を優先するように奨励し
ている事を主宰が知らないはずがありません。A主宰の家と私の家はすぐ傍で、その気があれば、
集会の帰りにでも立ち寄れる距離なのです。
もしかしたら、六回目の訪問を終えたあの巡回監督がもうB市を巡回して来る事はないので、監督
の指示を無視しようとしているのだろうかと、疑念が湧きました。

 監督に相談してから一ヵ月半後、夏の地域大会が始まりました。
大会二日目終了直後、何気なく後を振り向くと、10列ほど後ろに、A主宰が家族で座っており、ペ
ットボトルを飲んでいるA主宰と目と目が合いました。A主宰はすぐに飲むのを止め、作り笑顔で私
に近寄って来て、「姉妹、姉妹。ちょうど良かった。お話したかったんですよ。今、時間あります
か?」と、話し掛けられました。
(やっと待ちに待った和解の日が訪れた。さすが大会だ。エホバの霊が働いている。)と、私は心
の中で単純に喜びました。
A主宰は「ここでは、なんですから・・・。」と言いながら、どんどん歩いて行き、会場の建物の
外にまで出て行き、結局、帰路に着くエホバの証人達の目に付かない草むらに腰掛けて話す事にな
りました。

 「巡回監督から話を聞きましたよ。でもね、前にも言ったように、“断絶”ってB長老が言い出し
たような記憶があるんですよ。私じゃないんです。それとね、Y兄弟夫婦とは、あんまり付き合わ
ない方がいいですよ。」
私と話がしたかった、と言いながら、こんな草むらにまで連れて来て、A主宰が言ったのはこれだ
けでした。
謝罪でも訂正でもなく、言い訳でした。私の期待は見事に裏切られ唖然としました。
B長老のせいにするけれど、前に突然電話を掛けて、私が書いた手紙の内容を訊ねた時、B長老は内
容を覚えていてくれて即答したのです。B長老が断絶と言ったとはとても思えませんでした。
私は、きちんとした謝罪を求めるべきだったのかも知れません。しかし、A主宰から近寄って来て
話し掛けてきたのは事実だし悪く取らないでおこう、人目を避けたのはA主宰に後ろめたい気持ち
があるからだ、悪い事をしたという気持ちがある証拠だ。と、良いように解釈しようと自分に言い
聞かせました。
「兄弟、合併したらまた同じ会衆になるかも知れませんね。その時にはよろしくお願いします。」
と、私は軽く頭を下げました。
「いやぁ、こちらこそ、よろしくお願いしますよ。姉妹。」A主宰はニコニコしながら言いまし
た。私はその言葉を信じて別れました。



最終回そのE

 地域大会の後、新しい王国会館建設や会衆合併の話が、集会の発表毎に具体化して行き、11月に
いよいよ速成建設が始まりました。三つの会衆がどのように合併されるのか、B市全体の区域割り
と、新しい二つの会衆の成員割り振りが掲示板に貼り出されました。

 予想通り、A主宰と私は同じ会衆に名前が載っていました。
周りの住民の反対もあり、建設は遅れ気味でしたが12月中旬に完成し、合併した新しい二つの会衆
がスタートしました。私の属した会衆の長老団は、再びA長老が主宰、年配のB長老、30代のE長老
の三人でした。

 地域大会で「こちらこそ、よろしく。」と言ったはずのA主宰は言葉とは正反対で、集会初日か
ら、私には一切挨拶も交わしてくれず、主人にまで握手も挨拶もしてくれなくなり、A主宰が司会
するプログラムは、やはり一度も注解させてはくれませんでした。完全無視の冷酷さは以前よりも
増していました。会衆から出て行けと言わんばかりの徹底した無視でした。巡回監督に相談しても
全く意味がなかった事を痛いほどに思い知りました。

 私が集会を休んでいた6ヶ月、越境移籍していた7ヶ月、合計13ヶ月の間に、前の会衆でどんな噂
話が広まっていたのか、合併後再び同じ会衆の成員となった“以前の会衆の姉妹達の一部”はとて
も冷ややかでした。その姉妹達はA主宰の妻であるA姉妹をブレーンとするグループで、私から声を
掛けようと近づいてもその姉妹達はサッと離れ行ってしまい、A家族だけでなく、私を無視する人
が増えた分、以前よりも集会が苦しくなっていました。集会から帰っては再び家で泣くようにな
り、体調も崩して行きました。涙ながらの祈りは惨めになるばかりでした。

 年が明けた1月に、奉仕の僕のご夫婦(共に正規開拓者)が転居されることになり、最後の集会の
時に演壇上でお一人ずつがお別れの挨拶をされ引越しされて行きました。
そんな時、義母から電話がありました。義父の具合が悪く、老夫婦二人では何かと不安なので近所
に引っ越して来てくれないか、と言う内容でした。私自身、A主宰の元ではすでに心身の限界を感
じていた事もあり、主人と話し合い2月初旬の引越しを決めました。
 
 引っ越し前夜が最後の「神権学校と奉仕会」の集会でした。別れの挨拶は感謝だけ述べようと愚か
な私は「短い挨拶文」を考えていました。が、挨拶はさせてもらえないどころか、私が挨拶を辞退
した、とA姉妹が偽情報を先に流していました。「どうして辞退なんかしたの?」と訊ねてくる仲
良しだった姉妹には答え様がなく、涙が溢れそうになりました。

 私はA主宰に、「どうしてお別れの挨拶をさせてもらえなかったのでしょうか?」と話し掛けまし
た。
A主宰は私の目を見ずに答えました。「いいですか、姉妹。転入、転出の挨拶は協会で義務付けら
れていませんよ。知らないんですか?」
私・「じゃ何故、先月転居されたご夫婦は挨拶されたのですか?」
A ・「何言ってるんですか。あの兄弟夫婦は正規開拓者ですよ。姉妹はただの伝道者じゃないです
か。」
私・「エホバやイエスは、そのような差別をされるんでしょうか?」
A ・「・・・・・・。」
私・「兄弟と和解をしてこの会衆を出て行きたかったです。」
A ・「和解、和解って、姉妹と私の間に何があったと言うんだ。」
私・「断絶届けです。私は書いた覚えも届けた覚えもありません。」
A ・「集会にも来ない、奉仕にも出ない、それを断絶と言って何が悪いんだ!あの時の姉妹は  
 断絶そのものじゃないか!」
私・「務めの本を読んで下さい。私は断絶ではありません。」
A ・「あぁ、読んで言ってるんだ。巡回監督にまで告げ口して・・・・まったく・・。」

 A主宰はスタスタと去って行きました。
今まで「断絶届け」はB長老が言った事だと責任逃れをしていたA主宰は、最後の日になって怒りと
共に「自分が言った事」をこのような形で認めたのでした。私は泣き明かし、一睡もできず、翌
日、義父母の住む C市に引っ越しました。Dさんが亡くなってから1年7ヶ月が経っていました。

 組織は集会や雑誌を通して「被害者」ばかりを責めます。「霊性が低い」と。
「人を快く許すのに必要な信仰を持てるよう祈り求めなさい。」
「他の人につまずくのは愛に欠けた事柄です。」
「仲間の崇拝者たちに対する愛があるなら、その人達の欠点にこだわらないはずです。」
「長老と言えども不完全です。良い点や、良い働きを見るように。」と。
そして
「神の聖霊によって任命された長老に感謝し、敬意を払え。二倍の誉れを。」と。
引越ししても、こうした責めは続き、益々心は壊れて行き、癒される事はありませんでした。


「神の会衆を牧させるため、聖霊があなた方をその群れの中に監督として任命したのです。」とい
う言葉はすべての長老に当てはまります。(使徒20:28)そうです、長老たちはエホバ神から来
る聖霊によって任命されています。(ヨハネ14:26)その任命は神権的な任命です。
- ものみの塔 94年1月15日号「神権政治のもとでの牧者と羊」7節より -

                                            
  ・・・・おわり。

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